
写真:三宅晟介
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文楽は人形浄瑠璃ともいい、浄瑠璃・三味線・人形が一体となった舞台芸術ですが、最初からこの三つが組み合わさっていたわけではありません。
平安時代には既に、西宮戎神社と結びついた「夷かき」という人形の芸を見せる集団が存在したと言われますが、浄瑠璃節と中国・琉球を経て大坂・堺に伝来した三味線がひとつになって約400年前に原型ができました。
17世紀半ばには京都・大坂・江戸に幾つもの浄瑠璃の流派がみられましたが、その後、大坂の天王寺村出身の竹本義太夫が道頓堀に「竹本座」を開き、豊かで斬新な表現と、的確な描写で人々を魅了し、浄瑠璃といえばこの義太夫節を指すほどになりました。竹本義太夫は作者の近松門左衛門を招き、同時代の町人社会を生き生きと描いた「世話物」を語って庶民の間に爆発的な人気を得ました。なお、竹本義太夫・近松門左衛門の時代には人形を一人で使っていましたが、約260年前に現在のような三人で遣うように変化したといわれます。
歌舞伎の演目の多くは文楽からの翻案であり、現在でも櫓下と呼ばれる最高位の太夫は、歌舞伎の市川団十郎よりも芸事における地位が高いとされます。
<大阪との関わり>
19世紀はじめ、淡路島出身の植村文楽軒が、大坂に操り浄瑠璃の小屋「文楽座」を設け、後に出来た「彦六座」と人気を競っていましたが、彦六座をはじめ多くの劇場が解散した後は、操り浄瑠璃の伝統を受け継ぐ劇場は「文楽座」だけとなってしまい、それ以降「文楽」が大阪を代表する芸能として、人形浄瑠璃の代名詞となっています。
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